2016年10月29日

心に潤いのない大人

最近の子育ては、学歴への関心が高くなったためか、躾は無論のこと、人に対する優しさや思いやりがなくなったと感じる。

躾、優しさ、思いやりは、他人や社会を意識する土台であり、人としての基本である。

その上に学力や様々な技術が培われ、大人として完成して行く。


それらは内実であって、学歴などの形式ではない。

形式主義の横行は、年収が高い人ほど有能な人という拝金主義の考え方を招き、搾取そのもののように、人を騙す悪質な派遣会社も合法化してしまった。


以前の日本人の本質であり、美徳だった義理や人情の世界は限りなく薄れ、今日の大人社会の醜さが、そのまま家庭にも持ち込まれ、人間形成を優先しなかった学歴至上主義の価値観の学校教育に汚染され、洗脳された人が親になり加速化していく。


学校ストレスから生じる級友のいじめや教師の心ない言葉に傷つき、人が信じられなくなり、人間不信や人に恐怖を覚えた子ども達と形式主義の親達の間には心が通い合わない。また、未来に希望が持てない社会に絶望感から無気力になる青年達。

これらの親のカウンセリングをしていると、こっちも絶望感を覚えてくる。


人として育ってない大人が増えて来ている。

不登校やひきこもりの問題の本質はさらに深化し、長期化していき、不幸な社会に吸い込まれていく。

posted by 牟田武生 at 06:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月25日

育つべき時を失った青年達

秋が深まって来ました。

毎年、この時期から大忙しですが、今年は体調がすぐれない日が続き、よる歳並みも考え仕事を制限したから少しのんびりと過ごしています。

しかし、しばらくぶりの青空を眺め、宇奈月が恋しくなってきました。


11月には、内閣府のアウトリーチ研修が宇奈月で行われるから楽しみです。

冬が来る前の宇奈月は素敵です。また、何よりの楽しみは若者達を見守り、成長を確かめることです。人間関係やコミュニケーションスキルは生活体験を通して成長させることが一番早いのですが、育ちなおしですから何年も時間が掛かります。


特に関東地方では、Nバックを背負い、毎日、塾に小学校中学年から通い詰め、有名難関中高に合格し、その後、挫折し、不登校になった青年は難しいです。


ギャングエイジから思春期に向かう、この時期、友達との遊びを通して形成されるべき、人間関係のスキルが育たず、プライドばかり高くなり、自分の理想像と現実の自分の力との乖離(かいり)が大きく、埋め合わせが上手くいかず。

そのように仕向けた(育てた)親を憎むことによって自分の存在意義を確立しているようにも感じます。


一方、親も中高一貫校を出て、一流大学を卒業し、大企業や役所に入り先輩や仲間も同じような学歴を持ち、会社や世の中を支えていると思っているエリートの親達は、自分自身を子どもに否定されたと感じるのか、思い通り育たなかった子は、精神的に子どもを捨てる意識を無意識に持つようです。


さらに、不幸は重なります、詰込み教育で育った脳は自ら考えることが育ってないから他人の気持ちや思いを充分に理解できません。今日の教育の歪みが、あらゆる面で象徴的に散見されます。それなのに、なぜ、本人だけが、責められ苦しめなくてはならないのか、変な世の中です。


宇奈月にでも行き、空を見上げながら、考えてみたいと思います。

人間関係の基本は、健全な親子関係なら自然に育つ、感情の分化、それが出来ず、未分化のままの感情と育つべき時に育たなかった、人間関係のスキルを自我が確立した後でも、どう育てるかの大きな課題です。

posted by 牟田武生 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月15日

自分探しの旅

25歳になる和夫君(仮名)相談に来た。

人目が気になって仕方がありません。視線恐怖というのでしょうか?

それと、なにか、自分にとって、外出すると嫌なことが遭うのではないかという思いが非常に強くなり、緊張感がこみあげて来て、胃が熱くなり嘔吐が出るような感じがするのです。


あまりにもおかしいので、心療内科や精神科を訪ね、診察してもらいましたが、「思いこみが激しいようですね」と軽い精神安定剤を処方されたのですが、効果がありません。そして、病院のカウンセラーから「自分探しをしているんですね」と、言われて、特にしていませんと答えたら、そうですかで終わってしまいました。


家に帰ってから「自分探しをしているのですね」という言葉にはまってしまい。

頭の中で「自分探し」「「自分探し」という言葉が繰り返されるようになってしまいました。

「自分って何だろうか?」

“我思う故に我あり”という有名な哲学者に言葉が重なり、自分という者がなんであるか、分からないから、全てのものが、不安になってくるのではないかと考え始め、自分探しの旅に出た。


“自分とはいったい何者であろうか”“自分がヒトより優れているものとは何か”“自分にあった職業とは”“自分しか出来ないものとはなにか”思考の旅に出た。しかし、時間をかけて、考えても、考えても、旅が終わらないどころか、思考の旅は続く。

それは、玉葱の皮むきと同じで、剥き終わると玉葱は無くなってしまう。有(う、すなわち存在するもの)が、無になってしまう。自分を幾つ剥いても、全て、無となってしまう。

自分の存在は無であり、自分探しは“玉葱の皮むき”であるという結論にいきつくと、人生が虚しくなり、無の存在である自分を消すこと、すなわち、死に憧れを持つようになってしまった。でも、勇気がないから死ねないのです。どうしたらよいのでしょうか?

先生教えてくださいの問いだった。


自分探しの旅は思考の旅ではない。

読書の世界をたくさん旅し、情報や知識が豊富で、さらに、人生経験が豊かなカントやデカルトのような大哲学者なら別であるが、生活経験も読書歴、学習歴の浅い若者が、自分だけの世界である“己の世界でだけの空想の世界を旅しても観念の旅になってしまい。貴方の言うように、”玉葱の皮むき“になってしまう。そうなると、ほんの少しあった有の世界も無の世界に変わってしまう。


自分探しの旅は、人生経験の旅、すなわち、知らない土地を旅し、他人とふれあい、時には、デイスカッションし、新たな価値観を発見する旅でないと意味がない。


“他人との触れ合い、あらたな出来ごとを通して、感動や喜び、悲観や悲哀など、他人の思いを感じ、それらを相対化の中で自分を発見する旅が、自分探しの旅”だよ。

旅人は精神的に自由な立場であり、旅の中では、主体的に日常生活に係わらず、あくまでも、旅の人という気楽な立場で、日常を送ることができるので、それが可能なんだよ。


他人を遮断し、人と係わらないひきこもりの中でやっても、それには何の意味がないよ。

posted by 牟田武生 at 04:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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