25歳になる和夫君(仮名)相談に来た。
人目が気になって仕方がありません。視線恐怖というのでしょうか?
それと、なにか、自分にとって、外出すると嫌なことが遭うのではないかという思いが非常に強くなり、緊張感がこみあげて来て、胃が熱くなり嘔吐が出るような感じがするのです。
あまりにもおかしいので、心療内科や精神科を訪ね、診察してもらいましたが、「思いこみが激しいようですね」と軽い精神安定剤を処方されたのですが、効果がありません。そして、病院のカウンセラーから「自分探しをしているんですね」と、言われて、特にしていませんと答えたら、そうですかで終わってしまいました。
家に帰ってから「自分探しをしているのですね」という言葉にはまってしまい。
頭の中で「自分探し」「「自分探し」という言葉が繰り返されるようになってしまいました。
「自分って何だろうか?」
“我思う故に我あり”という有名な哲学者に言葉が重なり、自分という者がなんであるか、分からないから、全てのものが、不安になってくるのではないかと考え始め、自分探しの旅に出た。
“自分とはいったい何者であろうか”“自分がヒトより優れているものとは何か”“自分にあった職業とは”“自分しか出来ないものとはなにか”思考の旅に出た。しかし、時間をかけて、考えても、考えても、旅が終わらないどころか、思考の旅は続く。
それは、玉葱の皮むきと同じで、剥き終わると玉葱は無くなってしまう。有(う、すなわち存在するもの)が、無になってしまう。自分を幾つ剥いても、全て、無となってしまう。
自分の存在は無であり、自分探しは“玉葱の皮むき”であるという結論にいきつくと、人生が虚しくなり、無の存在である自分を消すこと、すなわち、死に憧れを持つようになってしまった。でも、勇気がないから死ねないのです。どうしたらよいのでしょうか?
先生教えてくださいの問いだった。
自分探しの旅は思考の旅ではない。
読書の世界をたくさん旅し、情報や知識が豊富で、さらに、人生経験が豊かなカントやデカルトのような大哲学者なら別であるが、生活経験も読書歴、学習歴の浅い若者が、自分だけの世界である“己の世界でだけの空想の世界を旅しても観念の旅になってしまい。貴方の言うように、”玉葱の皮むき“になってしまう。そうなると、ほんの少しあった有の世界も無の世界に変わってしまう。
自分探しの旅は、人生経験の旅、すなわち、知らない土地を旅し、他人とふれあい、時には、デイスカッションし、新たな価値観を発見する旅でないと意味がない。
“他人との触れ合い、あらたな出来ごとを通して、感動や喜び、悲観や悲哀など、他人の思いを感じ、それらを相対化の中で自分を発見する旅が、自分探しの旅”だよ。
旅人は精神的に自由な立場であり、旅の中では、主体的に日常生活に係わらず、あくまでも、旅の人という気楽な立場で、日常を送ることができるので、それが可能なんだよ。
他人を遮断し、人と係わらないひきこもりの中でやっても、それには何の意味がないよ。